答えを求める

多くのテストやクイズには答えは1つしかありません。複数答えがある場合でも、答えは決まっています。
多くの人が義務教育の過程で多くのテストを行います。その結果、答えをすぐに知りたがり、答えは決まっていると考えるようになります。
それは、本当に正しいことなのでしょうか?

私の意見として、答えをすぐに求め答えは決まっているという考えは、間違えていると思います。この世界で答えが決まっていることの方が少なく、まだ分かっていないことが多くあります。また、現状での正解が後にひっくり返ることも往々にしてあります。今後、文明が発達するためにも答えを探し続け、常識を疑わなくてはなりません。

先ほど、義務教育の過程で答えをすぐに知ろうとすると書きました。では、義務教育の在り方は間違えているのでしょうか?私はそうは思いません。何か答えを探そうとしても、元となる知識が無くては答えを探すことすらできません。元となる知識を蓄積させるためにも、義務教育は必要でしょう。ただ、答えは1つではないといったことも、義務教育で教えるべきだとは思います。

最近の政治を見ていると、答えをすぐ知ろうとし、答えは決まっていると思うことの問題点が大きくなっています。何かの問題がある時、それの改善策には多くの意見があり、それらの意見を議論させ新たに意見を見つけていき改善を行うのです。しかし、現代の日本人はこの議論に耐えることができません。そのため、トップダウンで決めることが良しとされます。郵政民営化や都構想はそれに当たります。ですが、多くの独裁国家では独裁者の小さな間違いから、国家はボロボロとなります。なので、多くの意見から答えを探すことが必要となるのです。

答えを探すことは非常にエネルギーを使います。ですが、答えを探すことをやめたら文明は進歩しません。人間が人間たる所以は、答えを探すことにあると考えています。

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