自分さえ

「自分さえよければそれで良い」と考える人がいれば、その人は批判されます。
「自分さえ我慢すれば良い」と考える人は、感謝されます。
ですが、私からするとこの二つの考えの根っこは同じであると考えます。
今回は、自分さえから始まる二つの言葉の本質を考察します。

自分さえよければ

「自分さえよければ」という考えは、その後に周りは関係ないとなるはずです。つまり、ミクロが良ければ、マクロは関係ないと考えているわけです。逆に「自分さえ我慢すれば」の場合は、ミクロが悪くてもマクロが良ければ良いと考えている訳です。こう書けば、やはりこの二つの言葉は逆の発想から生まれたと考えるかもしれません。ですが、やはりこの二つは同じなのです。

自分さえ我慢すれば

後者の「自分さえ我慢すれば」という考えにおける結果はたいていマクロでも上手くいきません。むしろ、その人が我慢したせいでマクロに悪影響を与えてさえいます。例えば、ブラック企業でサービス残業をしていたとします。その人は「自分さえ我慢すれば」と考えています。その結果、その企業ではサービス残業が当たり前となり、多くの人が不幸となります。この様な企業がのさばることで、サービス残業が社会では当たり前となり、所得の再分配は行われず経済は停滞します。つまり、自分が我慢したことで他人も不幸となったのです。

共通点

この二の言葉の共通点は、マクロを見ていないということです。つまり、自分の事しか考えていないのです。「自分さえ我慢すれば」という考えに至った理由は様々でしょうが、見栄や体裁だったりと結局自分のエゴなのです。我慢するという行動を日本では美徳とされます。ですが、その行為の源がエゴである以上それは美徳でも何でもないのです。

結論

「自分さえ我慢すれば」と多くの日本人は考えています。ですが、その我慢こそが社会を悪くしているのです。
本当に必要な我慢もあるかもしれません。ですが、今あなたがしている我慢は本当に社会を良くしていますか。一度じっくり考えてみるべきでしょう。

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