神の見えざる手

「神の見えざる手」とは、アダム・スミスが言った経済を表す言葉です。
この言葉の意味は、経済活動は個々の利益を目指す行動をしていれば、社会全体の利益が達成されるということです。
アダム・スミス自身は「見えざる手」と言いましたが、後の世で神が付け加えられました。「神の見えざる手」は主流派経済学の土台となる考えです。今回は、「神の見えざる手」は本当にあるのか考えます。

経済学は無秩序を好む

「神の見えざる手」の考えを平たく言うと、人々が好き勝手に経済活動を行えば、社会は良くなるという考えです。ですが、秩序なきとことに自由は生まれません。この様な、秩序のない所では、お金を持った人が大きな権力をもった世界となってしまいます。経済活動には、政府がある程度の介入が有って然るべきなのです。

現在の経済学は、この様な無秩序な状態を是としています。そんなバカなと思うかもしれませんが、実際そうなのです。まず、グローバル化がそれに代表されます。例えば、関税は政府が自国産業を守るためにかけます。しかし、自由な経済活動という観点からは、関税は非常に邪魔な存在となります。そのため、FTAなどで、関税を低くしたり無くしたりしています。また、国境という概念も自由な経済活動では邪魔存在です。そのため、国境の自由な移動などで規制を取り払ったりします。よく「現在は技術の発展で国境が曖昧になった」という人がいますが、これは間違いです。国境が曖昧になったのは技術の進歩ではありません。グローバル化という思想の下、国境を取り払っただけなのです。

政府はいらない

さて、ここまでの話で分かったと思いますが、「神の見えざる手」という思想にとって、政府とは邪魔な存在なのです。なので、主流派経済学者やグローバリストは「小さな政府」を目指します。民営化は「小さな政府」の代表です。今までは、政府が管理していた事業を民営に任せることで、政府の役割を小さくします。政府が市場に対して影響力を持たなくなれば、お金を持った人間の権力は大きくなります。その結果、格差は拡大されます。現在の日本は「小さな政府」へと向かっています。その結果、格差は拡大しました。この流れは今後も続きます。つまり、自由な経済活動を行っても「神の見えざる手」など働きません。ニーチェの言葉を借りるなら、自由な経済活動で「神は死んだ」のです。

結論

現在行われている経済政策は「神の見えざる手」が根拠との一端を握っています。そこには理論はなく、ただただ信じているだけなのです。なので、経済学は学問ではなく、もはやカルト宗教なのです。
グローバル化や小さな政府は、経済学者やグローバリストの妄想です。単なる妄想に人々は付き合わされすぎです。今後は、しっかりと政府の権限を取り戻すような政策を人々は選ぶべきなのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする