世界最大の宗教は資本主義であり、宗教は大衆をまとめる為の虚構であると世界最大の宗教に書きました。つまり、資本主義の国は国境をなくせるのではないのかという結論になりそうです。しかし、そう単純なものではないと考えます。
その理由としてまず、一般的な考えでの宗教でも宗派というものがあるということです。同じ神を信仰していても、解釈の違いから分断します。そして、近い宗教ほど仲が悪くなります。アブラハムの兄弟宗教ももとは同じ神を信仰していました。しかし今では大きく争っています。
考え方が近いからこそ、細かな違いが余計に目につくのでしょう。
資本主義は多くの人々を別の国へ旅行したり、一緒に仕事をする程度には統一させることはできました。しかし、国境をなくすことが出来るほどの効力があるとは思いません。
今、確かに世界中の人々の価値観は資本主義により、昔と比べて同じようなものとなってきていると思います。しかし、昔からある風習の違いまで統一させることはおそらくできないでしょう。
まず、言葉の違いがあります。外国語をどう頑張っても自国語に訳すことが出来ないなど、言葉はその国の性格をよく表しています。また、気候などのの違いから風習や伝統が違ったりします。伝統や風習は何百年または何千年と昔からの蓄積があります。つまり、その国にとって合理的なやり方であり、ここ何十年の価値観で壊してしまえるようなものではありません。
大きな価値観はある程度統一できても(それでも完璧にはできない)小さなところで違いが必ず生まれます。この小さな違いが争いの火種となります。
ヨーロッパ諸国ではEUによって国境が開かれました。
しかし、今ではEUを抜けたいという人が大勢います。
ヨーロッパという特定の地域の国境を自由に移動するだけでも、多くの問題が現段階でもあるにもかかわらず、世界中の国境を失くしてしまおうなんて土台無理な話です。
今、グローバリズムの名のもと国境が開かれて行っています。それにより恩恵を受けている部分もあるでしょう。しかし、最近ではグローバル化による弊害の方が大きくなり始めています。 なので、無制限に開けるほど今の宗教は成熟していないと思います。
政治哲学者のマイケル・ウォルツアーの言葉に「国境をなくせば、国内に千もの小さな砦ができる」というものがあります。今のいろいろな国で国家内国家が存在している事実から、この言葉の正しさを裏付けているといえます。
もちろん、国境が無くなれば人々が幸せになれるならそれでいいのかもしれません。しかし、今国境を失くせば多くの人が不幸になります。
グローバルという言葉を今一度考えなおし、国家とは何かを考える必要があると私は思います。